可惜夜。

感想を書き連ねます。

「或いは、ほら」についてわたしなりの解

宇宙をたったひとりきりで旅する誰かに、「もうさびしくないからね」と毛布を分かち合うような作品でした。

毛布、と称するのが正しいのかは分からないけれど温かくてやわらかい、宇宙にいたら感じられないぬくもりや手触りは確かにあった。

あと前にも増して数学っぽくてたのしい。ベン図とか数直線にしてみようかなと思ったところが何遍もありました。

 

 

 

 

ここから先は乱筆乱文のネタバレ備忘録になりますのでご注意ください。

 

 

 

 

【SCENE1】

寂しさを感じている鍵っ子の少年と不思議な老人のお話。

 

鍵っ子の少年

初めてモノローグを聞いた時、正直、梅津さんの幼少期が始まったんじゃないかと少しドキドキしてしまった。本がすきで、自転車で海まで行くあたりが……まあ、もしかしたらモデルにしているのかもしれないのですが……

自転車を漕ぐ場面で、帰りが遅くゆっくり話をする時間もない母、「部屋に戻るから」と寂しそうにも安心したようにも聞こえる父、一方的に話すだけの同世代の誰か。それぞれ目も合わず足早に過ぎ去っていくのが寂しい。

痛がる声がピカチュウみたいでかわいかった。声帯に大谷育江さんがいた。

ちょっと頭でっかちな感じが子どもらしくてかわいらしい子でした。

海面を咄嗟に宙と言い表す同じ感性を持つ人に出会い、彼の寂しさが少しは癒されたらいいなと思います。

 

老人

正直、最後まで観ても正体はハッキリしませんでした。あなたはどなた?「そうか。或いは、それも……」の後は何が続くの?何に気付いた?何を置いてきた?

「まあ、ね」の含みのある笑みがニヒルで良かった。

宇宙に少し詳しくて宇宙に行ったことがあるような描写が多かったので、本当に元宇宙飛行士なのかもしれないけれど、「宇宙」という孤独の比喩なのではないでしょうか。

 

冒頭の少年のモノローグのときに背を向けて座っていた梅津さんは、おそらく宇宙さんで「誰かに見られているような気がする」は彼だという演出だったんじゃないかと思います。

 

「ワシもさみしい。きみもさみしい」

少年にも共通するけれど、素直に「寂しい」と言える人は飾り気がなくて素敵だと思う。

或いは、ひとときの出会い、同じ感性を持つもの同士というシチュエーションが生み出したものなのかも。

 

 

【SCENE2】

スーパーで働く元マドンナと彼女に片想いしている同級生の「もしかしたら」の話。

 

※みちよ、しょうたを現在軸。みっちゃん、しょうちゃんを「もしかしたら」の中の人と区別した呼称をしています。

みちよ

気だるげかと思いきやマイク持ったらビブラート利かせて館内放送するみちよ。クールビューティーに見えるけどめちゃくちゃ天然なんだと思います。「みーぎ、みーぎ」もかわいかった。

千秋楽ではしょうたとダイナミックな鬼ごっこ中に靴が脱げて、さながらシンデレラのようだった。プロポーズしてしまう……

「もしかしたら」の想像の中でのみっちゃん、今のみちよのイメージよりもだいぶ明るい。「気が早すぎ」の言い方がだいぶ陽。骨折して入院している場面で痛みを堪えて無理に笑う顔はうつくしかった。

いろんな青春映画のツギハギみたいだしみっちゃんは古いアニメのツンデレヒロインみたいだしで、初見では「みっちゃん昔は明るかったんだな……」と思って素直に観ていたけれども、全て「ありえない」ことなのだと思います。あの監督はみちよの心の中の人なので、青春映画のようなシチュエーションも南ちゃんみたいなみっちゃんも、きっとみちよさんの人生には一度もなかった。だからSCENE5の「青春を味わっていただけ」に繋がってしまったのかなと思います。欲しかったものが「ありえない!」と手から流れ落ちていくときの悲鳴が痛々しかった。

みちよ、おそらく夢はあったものの上京はできず、地元の短大行ったか高卒で働いて、就職後早めに結婚して出産した人な気がする。

話は変わりますが、みっちゃんの花火大会で放った「ばぁか」で心臓止まらない人間はいないと思います。

 

しょうた

重たい男だな〜〜〜〜!!20年以上前の恋を引きずっているしみちよの目の前でみちよに振られちゃった気まずい話をするズレた人。ちょっとデリカシーがない感じの人。

「俳優かアイドルにでもなるのかと思ってた」

ここで「女優」というワードにしなかったのはきっと意図的なんだろうな。

店員さんに雑な人間がわたしは苦手なので現在軸の彼に対しては厳しい目線で見てしまう。

しかし、「もしかしたら」の想像の中で少年時代の彼は泥臭くて良かった。告白シーンと病室での橋本祥平さんの目の泳がせ方、めちゃくちゃテンパってるのが伝わってきてすき。

フィクションの中だからだけど、しょうちゃん身体が丈夫すぎてよくよく考えたらちょっとしたギャグ。

 

SCENE2の布の使い方がいちばんすきかもしれない。車窓を開けるところで布が落ちてしょうちゃんが自転車で追い掛けてくるところと、みちよが掴みたかったものが手の中から流れ落ちていくところ。この手の中から流れ落ちるような演出が後々効いてくるんですよね……

家庭内で寂しい思いをしていたら青春を取り戻してくれそうな人に再会してしまったお話でした。みちよが未婚だったとしても、現実のしょうたは店員さんに粗暴だし距離感ヤバそうなのでやめた方がいいよ……

みちよ、しょうた、みっちゃん、しょうちゃんのキャラ造形に「少し古い価値観を持った人」要素がそれぞれに含まれているのである意味主題なのかな。

「勇気出せ!男の子ヒトの子だろ!」

どう考えても言い回しがおかしいこの訂正で笑ってしまった。ヒロイン、長命種なんだろうな。

 

 

SCENE3

キラキラしたものが欲しかった女の子と純粋な男の子のクリスマスイブのお話。

 

ななちゃん

橋本祥平さんが演じられる若い女の子、ほんとかわいい。このななちゃん、SCENE5でみちよと母娘と判明するのですが、マドンナの娘なんだからそりゃあ美少女。

ななちゃんの若い子特有の不安定さと現代ならではの悩みや行動がとてもリアルで生々しかった。欲しいものに貪欲になって、それが努力だと信じて身を削るけど、取り返しがつかないことをしてしまったことに気付いて虚無感に襲われる経験はわりと誰にでもあることだと思う。「流れ落ちちゃった」が空虚な目をしていた。時計塔に見立てていた箱が「全部どうでもよくなっちゃった」で自我が崩壊した時に崩れる比喩、無地の箱が並ぶこの舞台でしかできないことだった。初見時この時点ではわかりようもないのだけれど、「キラキラしたものが手から流れ落ちていく」という運命が母娘で受け継がれてしまってつらい。

そして、ますます流されやすくなり弱っているところで「この人しかいない!」と明らかに悪い男に引っかかるのも妙にリアル。ななちゃんの実家、SCENE5の大晦日のところだけ見たらそう悪くは見えなかったけど、ななちゃんは何年も帰らない、弟は不登校という状況だけ見るとわりと息苦しい家庭だったんじゃないかなと勘繰ってしまう。そうと仮定すると、親への依存を恋人に全て傾けてしまう子は少なくないので納得がいってしまう。これは視野狭窄かもしれない。もう少し優しい考察ができるようになりたいな。

ななちゃんは自分自身は空虚な存在に感じていて、キラキラした何かで飾り立てなければ愛されないという焦燥感や寂しさを抱えていた。だから佐々木(仮)の

「ななちゃんは僕にとってキラキラしてるの!」

という言葉にとても救われたのだと思います。おそらく

「あんたはいいの、そのままで」

という言葉に佐々木(仮)も救われていたからあんなに必死になってくれたんだと思うよ。

「ねえ!ほんとにいたね。サンタさん」

のところの表情と言い方がかわいすぎてみっちゃんに撃ち抜かれるしょうちゃんばりに胸きゅんしちゃった。

 

佐々木(仮)

佐々木(仮)ーーーーー!!リスーーーー!!会いたかったよーーーーー!!!!

佐々木確定ではないし、梅津さんも「佐々木らしき」と言っていたので佐々木(仮)と呼びます。梅津ワールドには佐々木姓が多いので佐々木は佐々木でも別の佐々木の可能性もある(あるか……?)佐々木という苗字、語呂が良くてわたしもすきです。

佐々木(仮)、結構獰猛で一生オモロい。すぐ煽るしすぐ手ぇ出るし子どもと本気で喧嘩する。精神年齢5歳だ。

モモノケ「聞いてモケーーー!!」

佐々木(仮)(無言で叩く)

ここがめちゃくちゃすき。

あと号泣してる時の泣き方も幼児すぎてかわいかった。

全身ピンクのジャージ着て犬連れたおばさん、見たことある……ミームなの……?近所の川の権利書もらえるといいね。

こんなにいとけない佐々木(仮)だけど、友達のななちゃんが酷いことを言われたら必死に庇ったり落ち込んでいたら励ませるとても優しい子。

「僕なんか」と卑下するあたり、自己肯定感低いのが露呈していてちょっと切ない。佐々木(仮)、前作から感覚が子どものままの人というキャラだけど、幼いなりに人の機微はちゃんと感じ取っている部分もきっとあり、世間とのズレは認知してるんだろうな。彼が何故自分はズレているのかということに自覚的なのか無自覚なのかというところまでは分からないけれど、ななちゃんが「あんたはいいの、そのままで」と言う通り、変わりたくなければ無理に背伸びせず過ごしてほしいなあ。

サンタさんになれて良かったね。

 

このふたりの関係性がだいすきだ……

ななちゃんはいじわるはするけれど、佐々木(仮)の「変わらないもの」というところに多分羨望していて、だからこその「あんたはいいの、そのままで」という言葉なのだと思います。SCENE1の序盤の読書シーンに

クリスマスツリーは永遠の象徴

という話があったので、ツリーの格好をした佐々木(仮)というのはまさしく永遠に変わらないものの象徴で、変わらないものに執着を見せるななちゃんとの対比だった。思春期の時に冷えきっていく夫婦仲とか惚けていく祖父とか、貪欲になってしまった自分自身とか、変わりゆくものに心を振り回される経験が繋がっていると考えると彼女の変わらないしょうちゃんへの執着の背景が分かる。底辺にいれば期待を下回ることもないからそりゃあ変わらないでしょうねという感じなのですが、ななちゃんには多分そこまで考える余裕もなかったんだろうな。

サンタさんいるいない論争でガチの喧嘩をしていたふたりですが、「サンタさん=欲しいものを1つだけくれる人」「ななちゃんが欲しいもの=キラキラしたもの」と定義して式を置くと最後に佐々木(仮)がななちゃんが願ったキラキラしたひとつの星をあげることで「サンタさんはいる」を証明できたのが、うつくしい式でした。

 

余談ですが、よく考えるとななちゃん、佐々木、無職のしょうちゃんって名前は「解なし」で出てきた面子だった。「しょうちゃん……」で佐々木(仮)が意味深な顔してたのは地元のしょうちゃんを思い出していたのかもしれないな。時系列によってはめちゃくちゃホラーだけど。同じ人だと仮定するとななちゃんにはあんなに優しかったのに、しょうちゃんへの執着と対比されて途端にめちゃくちゃ恐ろしくなってしまう。なので、未来とか過去ではなく、マルチユニバース(或いは)の世界と解釈したいところです。

 

 

SCENE4

喫煙所でよく話ふたりのサラリーマンの話。

 

おじさん

他の登場人物のように呼称があるわけではなく、「あなた」としか呼ばれていなかったのでこのSCENE4に限り、おじさんでいきます。

橋本くんの前では本当に気が許せるんだなー、どうやって仲良くなったのかなーと挨拶のあの陰キャ感を見て気になりました。橋本くんから声掛けて徐々に距離が縮めていったのかしら。ド陰の聞こえるか聞こえないか分からない声量の挨拶する梅津瑞樹さんめちゃくちゃ健康に良かった。

布団の中の宇宙にいても現実にいても結局孤独という話を橋本くんがいい意味でぶった斬っていて良かったです。寂しいなら自分で居場所を作らなきゃいけないのは本当にその通りだと思う。これまでの登場人物に共通してある強い気持ちは、「誰かに寄り添ってほしい」という感情だったのですが、待っていても誰かは来ないし働きかけなければ居場所も作ることは出来ない。しかも居場所というものは沸いて出てくるものではなく、日々の生活から地続きで出来上がっていくものである。梅津さんが何度かインタビューとか挨拶で「人生は地続きである」という話をされているので、そういう思想はきっと根底にあっての橋本くんの考え方なのではないだろうか。おじさんにはまさに、日々喫煙所で関係を築いてきた橋本くんが寄り添ってくれる気満々だったのでその後、寂しさはいくらかマシになるといいな。

そして、すぐに謝りがちな彼の気持ちが個人的にいちばん身に覚えがあるものだったので、橋本くんの

「逃げるな!!」

がめちゃくちゃぶっ刺さってしまった。

このおじさん、なんとみちよさんの旦那さんだということがSCENE5で判明するのですが、みちよは「勇気出せ!男の子だろ!」の台詞をメインで持ってくるぐらいいざという時に勇気を出せる人がすきなんだと思いますが、彼はいざという時に部屋に籠ってしまうのでそりゃあミスマッチだよなあ。「私はロボットじゃない!」って怒った時に謝って改善もしないままなあなあにされたらいくら夫婦でも信頼関係って崩れるよね。かと言って一方的に言われっぱなしはつらいし、喧嘩をしたい訳では無い。これはすぐ謝りがちな自分語りを含めた分析なのですが、平和におさめたいから先に謝るんですよ。謝る方からすれば「嫌われたくない」はまさにそうで、その人との関係性を続けるためにすぐに反省をして先に折れるんです。しかし、こちらがどんなに誠実に謝ったところで謝られる側からしたらすぐに話を終わらせようとしていると受け取ってしまうこともある。彼はきっとそう取られがちだったんだな。そしておそらく「私はロボットじゃない!」って言われた後も改善しなかったのでますます……これはおじさんが100悪いところなので今後是非とも家事育児に合流してほしい。

千秋楽で宇宙を漂う時、人形が落ちる事故があったのですが落ちるタイミングと刺し直すタイミングが良すぎて演出変えたんだと思ってた。何の台詞か忘れちゃったけど、おそらく彼の本音であるパペットを強く刺すような刺し方で、自己嫌悪と自己憐憫が混ざったような感情が露わになっていて良かったです。

 

橋本くん

三田さんのヨイショする人がトナカイって呼ばれてるのめちゃくちゃ笑っちゃった。しかも、あれだけ馬鹿にしていたトナカイは実は自分の話というオチ。おじさんにトナカイしている自分を見せたくなかったんだろうな。

ボタンを留める手が上に上がるにつれて自分の首を締めているみたいな気持ちになるのに、何故かそれに安心してしまうという話が妙にリアル。例え自分を苦しめるものが仕事に関するものであっても、きっとその苦しさを上回るほど「職があり明日も行く場所がある」ということに対して安心感を覚えてしまう。観劇の帰り道、この場面について「サラリーマンの解像度高いな〜」と思っていたのだがよく考えると、ボタンを留められない日、靴紐を結べない日、電車に乗れない日は、どの年代でもどこにいても誰にでも起こりうることだ。でも、いつか糸が切れた時に本当に動けなくなるから橋本くんはどうか今すぐ休んでほしい。

彼のおじさんへの気持ちは無償の愛に近くて、犬になれちゃうぐらい。布団の中に宇宙を見出すおじさんの話を聞いた直後に「何かしてあげたい」みたいな気持ちが滲んでいたのがいじらしかった。このお話はどこにも居場所を感じることができないおじさんと、自分の居場所を無理矢理作った橋本くんの対比でもあるため、橋本くんが「もっと周りに溶け込む努力をすればいいじゃないですか」と言ってしまうこともできた。けれど、橋本くんは上記のような状態になるほどボロボロになり、おじさんには二の足を踏ませたくないからそんなことは言わなかったし、自分を拠り所にしてくれと言わんばかりに「犬になります!」と宣言した。自分が苦しんで努力していることを他人にも強要しがちな人も多い中、「自己責任」みたいな安易な言葉で片付けずに、自分にできるやり方で寄り添ってくれた彼はまさしく名犬である。

 

人形

「本音と建前」を使い分けるためとあの宇宙に漂う演出のために使用されたということは分かるが、12月30日の「梅津の潜む穴」にて

「もちもちした感触もヒント」

と仰っていたそれはふんわりとこうかな?程度にしか分からなかった。

この人形を前にして話しているときは本音で語り、人間として話している時は建前でした。この人形のデザインについて、顔が無くて裸なことに理由があるのではないかと考えた。あれを見て、わたしは「素体」だと思った。フィギュアとか絵のアタリを取る上での原型のようなものなのだが、言葉の定義を調べていたら数学の用語も出てきて目玉飛び出た。

素体(そたい、prime field)は自分自身以外に部分体を持たない体のことである。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/標数

標数はやったことがないのでイマイチピンとこない。部分体ってなに……?どなたかこれでピンと来たら解説してください……ここ数学知識使ってるとしたらちゃんと拾いたいので……

閑話休題。外では人の姿、家に帰ると人の姿を保てなくなるような人は少なくないと思う。 この造形の意味での素体が本音を表しているのは、そこに何でも足せるからで、社会人としての顔や服などを足した姿が人間の姿(建前)なのではないだろうか。

例えば、分かりやすいもので言うと、三田さんに媚び諂う橋本くんは2箇所とも人形を降ろしている。

敢えてもう1箇所を挙げるのであれば、おじさんが「君は若いんだから」と転職を考えている橋本くんの背中を押す時も人形を降ろしている。これは後ほど宇宙を漂う場面で「上手くいかなければいいと思ってしまった」に繋がるのでこのギミックに気付いていればハッとする場面である。

以上のことから、人の皮に内包されたやわい心があの人形なのではないだろうか。モチモチに繋げるには少し弱いかも。

 

 

SCENE5

晦日の一家のお話。

 

1回目に観た時に家族構成が分かった瞬間「オムニバスって言ったじゃん!!」となった。いや、きちんとオムニバスなのですが。

ほとんど既存キャラクターで、父=SCENE4のおじさん、母=みちよ、娘=ななちゃんということが発覚する。どうりでみんなそれぞれ使う語彙が似ているわけだ。 一緒に暮らしていると同じ言葉を使うようになることもあるので、家族の話前提として通して観ると書き手の癖とか作品の繋がりのためだからとかじゃなくて意図してその台詞を入れて家族を表しているんじゃないかな。

それはさておき、この章では6人と1匹が登場する。そのため、橋本さんも梅津さんもこの章は1人で複数役演じている。

パンフを読む前に、「エゴくん*1やってみたら行けると思ってだったりして(笑)」とか冗談で友達と話してたらほぼ正解叩き出しちゃった……梅津さんから橋本祥平さんへの信頼の大きさが凄まじい。

橋本さんだけ、梅津さんだけの場面がそれぞれあったのだが、役への移行がシームレスすぎて全く違和感がなかった。言式、とんでもない役者しかいない。

 

ここで初登場の弟くんとおじいちゃんについても語ろうと思う。

 

初見ではSCENE1の少年だと思ったのですが、パンフ読んだらどうやら別人らしかった。確かに語彙は似ているが、話し方や態度は少し弟くんの方が幼く見えた。

おじいちゃんと一緒にいる無邪気な良い子だな、と思っていたけれど抱えている孤独の穴の中から人をよく見ている聡い子でした。少年との違いは自分の孤独を家族に話せていたこと。ポジティブな言い方をしましたが、怒り故に。しかし、家庭内で子どもがちゃんと怒りを放出できるうちならば、まだやり直せるんじゃないかと思う。みんなが彼の怒りと孤独にきちんと向き合ってほしいと願います。SCENE4で必要なかったのかもしれませんが、息子の話題1ミリも出てこなかったことに気づいた時目を剥いたので……「見てくれない」ってマジじゃん……になってしまったので……

ライカ犬の話を聞いて

「どうなったの?」

「寂しかっただろうね」

と言える優しさがあるところがすてき。

 

おじいちゃん

完全に自己解釈(これまでもそうだけど今までよりもさらに)ですが、このおじいちゃん、SCENE1の少年ではないだろうか。本作においては台詞や言い回しが共通するということに意味を持たせているのであれば、

「Do you?」

「青いな。青すぎる」

この2つの台詞があの老人と関係が無いわけがない。ではこの人はあの老人の数年後の姿なのではないかとも思ったのだが、このSCENE5ではSCENE2〜4の主役寄りの人が集まっている。そのため、SCENE1の少年ではないかと思ったのだ。鮮烈に残ったあの日の記憶が大晦日の今日この日に蘇って、かつての自分と同じように悩んだ弟くんに同じ言葉をかけたのではないだろうか。ちょっと理由が弱いのでそうだったらいいなが7割だけれども。

「或いは、あそこに、まだ。

見つめているかもしれないだろう。

私たちを。ほら」

これは

「そうか。或いは、それも……」

のについて彼なりの答え合わせなのではないだろうか。置き忘れたと零した老人が置いてきてしまったものについての。

おじいちゃんが窓を開いた瞬間、照明が青に変わって星空が瞬く夜の空を表すような演出が作中の演出の中でいちばんすきでした。

 

 

クドリャフカと宇宙さん

宇宙を旅する一匹と寄り添う誰かの話。

 

クドリャフカ

クドリャフカライカ犬)のことを知らなかったので調べると1957年11月3日に打ち上げられたスプートニク2号という宇宙船に乗せられた初の宇宙犬であるらしい。その最期については様々な説があるのだが、調べてみると孤独な旅であったことを想像することはいとも容易いことだ。

1回目の観劇では彼(メスだったらしいので彼女……?)が犬であることに気づいたのはSCENE5の窓を開けた後の場面だった。2回目を観たら最初からちゃんと犬の息遣いをしており、「地球初だよ!」と言っているので知識があれば最初から察しがついたのかもしれない。

SCENE3と4の間ではもう体調が悪かったクドリャフカ。直前までななちゃんやってたのに、めちゃくちゃ顔色が悪く見えて橋本祥平さんすごいなと思った。寂しさを因数分解したような、どこかに行きたい、どこにいても不安、魂が別のところを漂っているようだという気持ちの表現がすごくよく分かる。寂しいとどこか別のところへ行きたくなるのはなぜだろうね。

そしてSCENE5。無理に元気に話そうとする姿が切ない。起き上がる時にもう目を開けるのもつらそうで、でも最期までいつも通り宇宙さんと話をしたかったのだと思う。

「宇宙さんがいると、寂しくないんだぁ」

 

「じゃあ行こう。ずっと一緒に」

もうこの台詞だけでこのクドリャフカの物語はハッピーエンドなんじゃないかと思う。

理不尽な運命には変わらないけれど、クドリャフカの物語に「孤独ではない旅という可能性」が追加されたことが1つの救いであり、追悼になればと願います。

 

宇宙さん

抑揚の無い声。見えない顔。大きな影。

人じゃないんだろうな、この人は。と思って序盤は恐ろしい存在なのではと怯えていましたが、この物語の中でいちばん優しい存在でした。

声に抑揚は無いし途中まで表情も全く見えないけれど、小芝居とかしてくれるし目覚めにクラシック歌ってくれるし、結構愉快な宇宙さん。クドリャフカが寂しくないように一生懸命だったのだと思うと人間味があり愛おしい。

SCENE5でようやくお顔が見えました。

「ねえ、何か話してよ」

とねだられて少し話した後に「こわくないよ」(「こわくないの?」だったかも)と言う声色から寂しさとクドリャフカを励ましたい気持ちが伝わってきて胸が苦しくなった。

「この僕の話は?」

「これでおしまい」

「そっか」

「でも、まだ続くんだ」

ここで初めて宇宙さんがクドリャフカの顔をしっかり見て話をした。

「 もしかしたら、君の隣に誰かいたかもしれない。

もしかしたら、誰かが君を夢に見ているかもしれない。

もしかしたら、この果てのない宇宙を君と旅した男がいたかもしれない」

この「或いは」の畳み掛けがとてもすきでした。

そして、この後につながななちゃんとお父さんの場面で、お父さんが布団の中で、

クドリャフカ、ずっと一緒に行こうね」

とぼやいていたことから、宇宙さん=お父さんだったのだと考えられる。ここで全ての物語が繋がり、鳥肌が立った。初見は家族の話と宇宙での話は切り離されたものだと思っていたので……オムニバスって言ったじゃん……

初めから1人でいる時より、みんなが楽しそうにしている時に自分だけ楽しくない瞬間の方が遥かに寂しい。そんな孤独から逃れるために彼は宇宙さんとなり、クドリャフカと宇宙を旅していた。クドリャフカと宇宙さんは長い旅をしていたような関係性に見えたが、実際のクドリャフカの旅は10日間にも満たなかったらしいという説がほとんどだ。

しかし、クドリャフカと宇宙さんの旅は想像であり、夢だ。お父さんは夢の中で宇宙さんとして長い間、たくさんクドリャフカと旅をしてきたのだと思うし、想像の中だからクドリャフカはずっと元気で終わらない旅の可能性だってあったはずだ。

けれど、ななちゃんから始まった彼への歩み寄りが、クドリャフカと宇宙さんの旅に終わりを告げたのではないだろうか。

 

 

終わりに

最終的に、それぞれ違うところを見ていた家族が同じものを見ているという終わり方が奇跡的だった。

そして、或いはクドリャフカは、あの一家のもとへ、地球へ、帰って来られたのだという見方もできるのかもしれない。

「もしかしたら」という想像を、捻くれたわたしはシニカルに「所詮は現実逃避」と言ってしまうこともあるが、時にはそれが救いになるのだという優しい物語に出会えて良かった。

 

すきな演技をしてすきな文章を書く人が作る演劇の世界は一体どんなものだろう、と思ってこの舞台のチケットを買ったのが始まりでした。そうしたら想像を優に超えるものが出てきて、こうして1万字以上の駄文を書き連ねなければ気が済まないほど強い衝動に突き動かされている。数年ぶりに、こんなにたくさんおしゃべりをしたような気がする。自分にこんなに語れる感性と熱と忘れたくない執着が残っているだなんて思わなかった。

 

梅津瑞樹さんの演技と作り出す世界が、本当にだいすきです。

どうか元気に長生きしてください。

言式第50回公演、お待ちしております。まずは来年また、言式第3回公演でお会いしましょう。

*1:「マリオネット・ホテル」の登場人物。多重人格。